絵はわからなかった。でも、心は晴れていた
東京・上野で開催中の「ミロ展」を訪れました。正直に言って、絵そのものの意味はあまりよくわかりませんでした。抽象的な線や形、鮮やかな色彩。解説を読んでも、「そういうことなのか」と納得しきれるわけではない。どこか宙に浮いたような感覚のまま、展示をひとつひとつ見ていきました。
けれど、展覧会を見終えた後、私の心はとてもすっきりしていました。よくわからなかったのに、なぜかモヤモヤが残らなかった。それがとても不思議でした。
人柄がにじみ出るエピソードに触れて
その理由のひとつは、ミロの“人柄”が作品を通じて伝わってきたからだと思います。音声ガイドや展示解説からは、名声や富に流されず、誠実に「人に届く芸術」を追い求めたミロの姿が浮かび上がってきました。
特に心に残っているのは、ミロが自身の作品を“限られた人のもの”にしなかったというエピソードです。街角のポスターに協力したり、公共の場に彫刻を設置したり、誰もが手にできるように版画を制作したり。絵が金銭的な価値を帯びていく中で、「本当に見てほしいのは作品そのものだ」と考え、意識的に人々の目に触れる工夫を重ねていたのです。
この姿勢には、単なる優しさを超えた信念が感じられました。美術館やギャラリーという“特別な空間”だけでなく、日常のなかにアートを届ける。それは、芸術を“飾るもの”から“感じるもの”へと引き戻す試みでもあったのだと思います。
言葉ではなく絵で語るということ
展覧会の最後、音声ガイドが伝えていたミロの言葉にも深く心を動かされました。
「絵画を通じて、これまでの自分の人生を表現した。言葉の代わりに絵を思い出して、すべてのことを作品の中に見出してほしい。」
この言葉を聞いたとき、「絵を観ること」は“意味を理解する”ことではなく、“何かを感じる”ことなのだと腑に落ちたような気がしました。もしかすると、今の私にはまだ分からないかもしれない。でも、自分が年齢を重ねたり、何かを経験したりするうちに、ふとミロの絵の中に過去の自分の気持ちや出来事を見つけることがあるのかもしれない。そう思うと、“今はわからない”という状態そのものも、ひとつの美しい出会いの形だと感じました。
“再会”したくなる絵
ミロの絵は、言葉では言い表せない感情や記憶、詩的な余白に満ちていて、受け手によってまったく異なる印象を残します。だからこそ、一度見て終わりではなく、何度も再会するたびにその意味が変わっていくような、人生の中の小さな鏡のような存在なのだと思います。
今回のミロ展は、作品の意味を理解するための場というよりも、「わからない自分」をそのまま受け入れられる、静かで優しい時間を与えてくれる展覧会でした。そしてそれはきっと、ミロという人が、誰かを置いてけぼりにしない、まっすぐで温かな芸術家だったからこそ成り立っていたのだと思います。
またいつか、どこかでミロの作品に出会ったとき、自分がどう感じるのか。今から楽しみにしています。今回は、“わからないけど心地いい”という不思議な体験をくれたミロに、素直にありがとうと伝えたい気持ちです。
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